カトリック浦和教会
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栄光のかげにあるもの2012年4月号)

   齋藤 紳二


 東日本大震災1周年記念のテレビ番組で一番引き付けられたのは、何人もの被災者が参加したマラソンのドキュメントでした。ゴールする被災ランナーの笑顔に、思わず涙を禁じえなかったほどです。苦しい道を歩まざるを得なかった人たちが「完走」を成し遂げた晴々しい表情に見とれているうちに、なぜか彼らの顔とイエスの顔がかさなりました。

以前から、輝かしい復活の前に、なぜ神の子イエスはあれほど苦しまなければならなかったのか腑に落ちなかったのですが、その疑問が解けたような気がしたのです。

宣教を開始してからのイエスの日々は、苦悩と苦渋の連続です。神の子としての栄光を示す出来事はありました。しかし、イエスに反対する勢力から受けた妨害、非難、中傷、攻撃などと比べればわずかなものです。その上、愛する弟子たちは彼の言葉をなかなか理解できません。そして、苦難の道行きと血まみれの刑死……あまりにもつら過ぎます。

もし、イエスが笑顔のまま十字架にかかり、苦痛もなく息を引き取っていたとしたら、人類はその出来事の記憶を2千年も保ち続けることができたでしょうか? イエスの死の中に神の無限の愛を見て取ることができたでしょうか? 人間の心はほとんど動かなかったと思います。だからこそ、イエスは苦しむ姿を私たちに示さなければ「ならなかった」のです。流れる血を私たちに見せなければ「ならなかった」のです。なぜなら、人間は苦しみを乗り越えた人に一番心をゆさぶられるからです。イエスの苦しみがあったからこそ、人間は十字架上の奉献の意味を深く思いめぐらすことができたのでしょう。

テレビを見ながら私は「苦しみの前提が無い栄光に人は心を動かされないものだ」ということに気付いたのだと思います。 

震災のニュースに一喜一憂した心で、血まみれのイエスの姿を繰り返し思い起こす事が私達に強く求められているのではないか……そんな感じがしてなりません。




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